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横浜西部地区 税理士会緑支部について その5 [横浜西部地区緑支部]

2011-08-07

 さていよいよわが緑支部について書こうと思います。
以前緑支部の活動についてブログにも書きましたが、今回は私が支部長という
立場で書こうと思います。
(ア?カイブでは、東京地方税理士会つまり本会の広報部副部長という立場で
書きました)

 再び自分の自己紹介から始めます。私は昭和31年2月に長津田の地で生まれ、
大学まで自宅から通いました。
 自分が生まれてから22歳になるまで、昭和31年から昭和53年までですが、
国道246号線が整備され、田園都市線も大井町行ではありましたが、駅周辺も
大分都市化されてきた時期です。
私の周辺の土地も、以前は市街化調整区域でしたが、昭和40年代後半になって
区画整理事業が施行され、市街化区域となりました。

 今私の事務所の前は県営長津田団地ですが、この団地は昭和30年代に造られた
と記憶しています。(当時は長屋作りでした)
 ただ長津田駅前周辺はあまり変化がなく、田舎作りの駅だったという記憶しか
ありません。

 横浜線沿線で言えば、昭和40年半ば鴨居駅が新設され、大分後になって長津田
駅と中山駅の中間に十日市場駅、そして長津田駅と町田駅との間に成瀬駅が新設
されました。複線化となったのも、昭和50年に入ってからと記憶しています。

 とにかく田舎ながらも街が形成されていた横浜線沿線と、山を切り崩して東急が
大々的に街づくりを行った田園都市線との差は歴然で、街の雰囲気もその頃から
はっきり違っていました。

 大学を無事卒業してから就職しましたが、昭和53年はなぜか就職氷河期で就職
に大いに苦労しました。大学での「優」の数は36個と大分頑張ったつもりでしたが、
サ?クルやゼミに入らず、帰宅部を選択し、授業と雀荘通いの日々でしたから、面接で
自分をアピ?ルする材料がこれといってなく、これが苦戦の原因でした。
 自分にとっては、大学の4年間は今となって振り返れば、西洋史でいう暗黒の中世
時代さながらに、何も収穫のないただ徒に年だけが経過した無駄な4年間でした。

 苦戦した就職活動でしたが、一応中堅損保会社に滑り込むことができてほっとした
のもつかの間、最初の赴任地が石川県金沢市という、自宅から一歩も離れたことのない
甘えん坊の自分にとっては大変な驚きでした。
 ただ自分にとってはこれでようやく親元から離れることができる、未知の人生が待って
いる、とうきうきの気分でした。
 一方両親特に母親にとっては、一応旧家の長男が地方へ転勤ということだけで、かなり
動揺していました。地方企業ではなく全国企業に就職したのですから、考えてみれば
当たり前なのですが、母も最初ぐらいは通勤圏内だろうと思っていたようです。

 2年間の損保生活は楽しいものでした。自分は損害保険調査課という、査定業務つまり
保険金を支払う方の業務に就きました。
 K保険会社では大学新卒男子には、厚木で4週間の研修を施し、しかる後に各部署へ
送り込むという教育方針を採っており、私も金沢勤務はゴ?ルデンウィ?ク明けとなりま
した。

 その頃は時代的にも高度経済成長で会社の業績も順調に伸びていましたから、新卒
社員にいきなり即戦力を求めることはしていませんでしたので、自分も3年間かけて一人
前になればよいのだ、という意識で、よくいえば伸び伸び、悪く言えばのんびり仕事をやって
いました。上司の課長さん、課長代理さんもとてもこの使い物にならない若造を可愛がって
くれました。

 査定業務とは保険金の支払業務ですが、保険金を適正支払うことです。
自動車事故(私は新米なので難しい対人査定業務ではなく、対物査定業務をやっていま
した)の場合、加害者が100%悪いということはむしろ少なく、殆どのケ?スで相手方との
過失割合の認定がポイントとなりました。また車両の損害程度が板金で済むものか、それ
ともパネルごと交換を要するかなども交渉のポイントとなっていました。
 特に新車をぶつけた場合、必ずといってよいほど相手方はパネル交換を要求します。
人によってはささいな傷なのに新車に交換しろ、といってくるケ?スもあります。

 アジャスタ?といって、修理工場の人と車両の損傷度合いに応じて修理の方法を交渉
する物損事故のプロに交渉は任せるのですが、そのプロがした交渉を私のような新米が
見るのですから、はっきり言って分かるはずがありません。
 アジャスタ?の方に懇切丁寧に交渉の過程、修理か交換かの適否判断のポイントを
教えてもらう日々でした。