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家族制度について考える その6 [家族制度について]

2008-06-10

 道徳教育、というとすぐに国粋主義とか軍国主義の復活などを連想される方もいらっしゃるとと思いますが、私はそんな事は毛頭考えてもいません。
 あくまで道徳教育とは、人としての道を教える教育であり、個人主義の美名のもとに極端な利己主義に走っている現状を、人に対しても気配りのできるように鍛え直す教育です。
 人間だれしも自分が一番大切であることは疑問の余地がありませんが、自分を大切にした上で、社会との関わり合いの仕方を躾けていくことが必要です。
 自分を大切にする、というのは言葉で言うのはやさしいのですが、案外難しいものです。
自分に自信が持てないために自暴自棄になり、すねたり、落ち込んでウツになったり、逆に虚勢を張って尊大なフリをしたり、さまざまな屈折した行動をとるものです。

自分を大切にするということはまず、自分をありのままに見つめることです。
良い自分も悪い自分もすべて自分として受け入れる、その勇気が必要です。

 誰しも人より劣っている部分、自分の中のイヤな性格など認めたくない部分も数多くあるでしょう。しかし、そういう自分も人間らしくていとおしいと思えなければならないのです。
 人間誰しも程度の差はあれ、心に屈折したものを持っているのですが、その屈折感が強いと自分を傷つけるどころか、他人も傷つけてしまいます。ですからその屈折した性格は極力小さいうちに改善していかなければなりません。
 すべてを受け入れる勇気を持つことは大変ですが、私なぞは自分のイヤな性格について、この性格も含めて俺なんだ、と開き直ってしまいます。無理にイヤな性格を矯正しようとするから、どんどん自分が見えなくなってしまうのではないのでしょうか。
 心理学の本でも教育関係の本でも、短所、欠点を直すより長所を伸ばせ、と説いています。
長所と短所は裏表の関係なので、短所を矯正すると長所も薄まってしまい、自分の個性が失われるからでしょうか。それよりも私は短所を無理やり矯正することによリストレスが溜まっていくことが心配です。
 また完全無欠な人間はこの世に存在しませんし、没個性的な人は付き合っていても面白味に欠けるものです。人は少々欠点のある人の方が付き合っていて面白いし、第一相手が安心するのです。わざとぼける必要もないでしょうが、欠点もその人の個性の一つですから逆に大切にする位の開き直りがあってもよいと思います。
 とにかく自分で自分を受け入れることさえできれば、他人に対して争う気がなくなってきます。
それこそ自分は自分、人は人、と一歩下がって冷静になって他人を見ることができるからです。
 ですからムキになって人と争う気にもならない。何故なら相手の優れている点があり、自分の方がその点では劣っていても、それが彼の個性であり、それが自分の個性だからです。
 他人との争いのきっかけは、自分の中でのイヤな性格を指摘されたり、くすぐられたりしてカッとなってしまったり、自分を優位に立たせるために他人の弱点を攻撃して足を引っ張ったり、他人との競り合いに端を発するものが殆どではないでしょうか。

 そうやって他人との相対関係を意識しすぎているから、いつも自分の地位、立場に不安感を覚えオドオドしているのです。

 人は人、自分は自分、と線を引いてしまえば他人との無用な争いに興味を示さなくなります。
 他人を受け入れるというのは、そうした自分をありのままに見て、自分に対して何のわだかまり、こだわりのない精神状態でこそ初めて可能になるのではないでしょうか。
 他人の成功する有様を見てうらやましく思うのはよいとしても、あの野郎うまくやりやがって、何でこの俺がアイツより成功しないんだ、あんな奴失敗して泣けばいいんだ。と人の失敗を暗に期待するような心根では、まだ他人と自分との相対関係に縛られていると言わざるを得ません。 
 前にも触れましたが、「魔訶般若波羅密多心経」の中の「心無?礙」は、わだかまりのない心です。事実は事実として、冷静に受け止める 。そこに邪心が入っては自分の中の心眼がゆがんでしまい、物の見方がねじ曲がってしまうのです。
 早く他人の成功や幸せを素直に受け入れ、ごく自然に賞賛できるようになりたいものです。
そして、その他人の成功を横目で見ながら、自分は自分なりに頑張れば良いのです。
 といっても私は競争を否定するものではありません。というより人間社会で競争がなくなることはありえません。何故なら人間は生物であり、生物はみなその遺伝子がより強さを要求するからです。
 ただ何でもかんでも自分と他人とを同一の土俵で見ようとせず、お互いの領域、個性、能力の中で最善を尽くせば良いのではないか。他人が持っている強みが自分にはない替わりに、自分には他人にはない強みがある。それを生かせばよいのでは、と思うのです。
 今の日本の競争社会は、各人を全て同一の土俵に立たせて競わせようとしています。だからどうしても勝ち組、負け組が出てしまうのです。社会が画一的な判断基準で人を査定してしまう傾向は各人の個性を押し殺すどころか、勝ち組負け組をはっきりさせてしまうので、無用な戦いを避けようと思っていても否応なしにその競争社会に巻き込まれてしまうという点で大変危険です。
 ですから今の世の中で、冷静な目、自分を客観視する目、さまざまな事象をありのままに見る目を養い、維持するのは大変だとは思いますが、自分と他人とを客観視する気持ちの余裕があれば、無意味な争いで他人をかき回し、自分自身も自分の興奮した感情に振り回されることもなくなるでしょう。他人に対してもっと寛大な態度をとることができるはずです。
 私は各人が精神的に自立した人間になってもらうそうした道徳教育を粘り強く根気強く、幼児から中、高校教育までやっていただきたいと切望しています。