相続税の大改正に思う その5 [相続税の大改正について]
私が確か自分のブログ「家族制度について」で書きましたが、自由は暴走するのです。
何をしても自由で許される、ということになれば、人間は己の本能といいますか、エゴつまり利己主義に従って、本当に自由に突っ走ってしまうのです。どこまでも。
いい加減に自由に足枷せをはめないと、とんでもないことになってしまうのです。
事実、人を殺しても何ともや思わないとんでもない人が犯す無差別殺人が、最近とみに増えてきました。彼らは精神異常者ではなく、それこそどこにでもいる普通の若者なのです。
ということは、普通の人間の私たちにもそうした狂気が潜んでいるということです。
ただ、社会的に懲罰される、人を殺してはいけないという道徳教育を受けてきたから、自分の気持ちの中でフタをしているだけなのです。
そうした道徳教育よりも、戦後の日本は個人尊重という美名のもとに、ひたすら自由を賛美し、推奨してきました。
確かにそれにより、個人の行動は足枷が取れ、特に日本の女性は戦前とは比べものにならない位自由になり、生き生きしてきました。
しかし何度も言いますが、今や自由主義の追求によるプラス面よりもマイナス面の方がはるかに大きくなり、この先もますますマイナス面が表出してくることが予想されます。
元々自由主義自体、明治、大正時代の日本は、国力増強を図り、列強からの被植民地化を跳ね返すことを主な目的として、西洋文明を積極的に取り入れてきましたが、まだまだ真の自由主義には遠い状態でした。
それは日本が農耕民族であり、単一民族であったからです。
つまり西洋諸国のように激しい戦いの末に勝ち取った自由主義ではなく、近代国家を作るために制度的に導入したものである側面が強く、簡単に言えば、精神から入るのではなく、制度、形から入ったというところでしょう。
それと、長い間農業立国であった日本では、村の人々同士の共同作業を要求され、「出る杭は打たれる」の諺にあるように個人が突出するのではなく、村全員が共同してその和の力で事業を遂行するという時代が長く続いてきましたから、狩猟民族の考えに基づく個人主義はなかなか馴染まなかったのは、当然のことでありましょう。
さすがに第二次世界大戦前の日本では、産業の近代化が進む一方で、家族制度が旧態依然としていましたから、その制度疲労が大分顕著になっていたようですので、敗戦後アメリカが乗り込んできて、自由主義を一挙に推し進めたことには、日本国民が大いに解放された思いであったことは間違いないでしょう。
しかし敗戦後60年余経過し、あれだけ賛美し恋い焦がれた自由主義は、暴走のあまり極端な利己主義を容認することになり、大変に憂慮すべき事件が多発しています。