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私の愛読書 その2 [私の愛読書]

2008-06-03

 人間らしさ、っていったい何なのでしょうか?
私は、人間は人間である前に、動物であり生物であると思っています。
 いまさら何故当たり前のことを言い出すのか、と思われるでしょうが、私には少なくとも今の日本人でその当たり前のことを忘れている人がかなりいらっしゃるのではないか、と感じてしまう局面に多々遭遇します。
 一つには子供を作らない、子孫を後に残さない、とお考えの方がかなりいらっしゃることです。
確かこの点については、少し前に町村官房長官が、子供を作るのは義務である趣旨の発言をされ、子供ができない、授かれない方々から大いにバッシングを浴びていました。
 私は町村氏に同調する意思はありませんが、考え方は近いものがあると思っています。
それは、動物であり生物である限り、子孫を残していくのが我々の宿命だということです。
 そうは言っても、残念ながら子宝に恵まれない方は多数いらっしゃいます。その悔しさ、無念さはお察し申し上げます。ですから私はそうした方々を非難するつもりは毛頭ありません。むしろ大変同情申し上げます。
 私の言いたいのは子孫を作る、自分の遺伝子を子孫を作ることによって後世に継承させよう、という動物、生物にとって当たり前のことをやろうとしない方が増えているという悲しい現実を憂いているのです。
 そして自分の代で終わりにすることは、永々としてしてその礎を築いてこられた先代の想いを断ち切ることになるのですよ。駅伝ランナ?でいえば自分で走るのを途中で放棄し、たすきを繋がないでレ?スを打ち切りにしてしまうということなのですよ。その事の重大さを分かっているのですか?ということです。
 人類はこの地球に生息する生物のなかでの最高峰、最終進化形と言われます。
人類以外の生物は子孫を残すべく必死に生き、鮭を例にとるまでもなく自分の命と引き換えに、その種(しゅ)の種(たね)を、遺伝子を後世に残し、後世にさらなる種族の発展を期するのです。
 生物の最終進化形といわれる人類が、この地球に生息する他の全ての生物の模範になるどころか滅亡の道を辿っているというのは、何たる皮肉でしょうか?
 人類という言葉で大風呂敷を広げたような口ぶりでしたが、もっと単位を狭めていただいてもよいのです。社会生活での最少構成単位は家庭です。その家庭にあちこちでヒビが入ってきている。親子断絶は当たり前、親子での親が子を、子が親を殺めたり暴力を振るうのも珍しくなくなってしまいました。そして結婚しようという意思がない、結婚しても子供を作ろうとしない人も多くなりました。
 勿論今の日本では子供を作り育てるのに環境が整っていない部分は多々あると思います。
また社会不安、環境不安などこれからの子供たちの進む将来は、明るいどころか真っ暗ではないか、というお考えも一理あると思います。
 しかしそれでも子孫は、子種は残さなくてはならない、と私は思うのです。
子供の行く末を心配するから子供を作らないのだ、という考えはもっともらしく聞こえますが、私は逆に戸惑いを隠せません。そこに傲慢さを感じるからです。
 誰が決めるのですか、生まれてきた子が不幸になるって。、どうして断定ができるのですか?
それは神のみぞ知ること、我々人間にはそこまでの知恵はありません。だから我々は期待を持って後世に委ねることしかできないのです。とにかく子孫を残す、そしてその子孫に期待を持って任せるしかないのです。勿論子供の教育は親の務めです。精一杯教育しなければなりません。  
 その時子供に夢を持たせるよう教育し送り出さなければ、子供は路頭に迷ってしまいます。
そうやって親はわが子を最大の期待を持って世の中に送り出す。それしか出来ないのです。 あとは子供たちが自分たちの力で波を一つ一つ乗り越えていくだけです。
 期待してあげようではありませんか。わが子に。次の子孫に。自分の代で断ち切るなどと思うことは、尊い命をそして永々として築きあげつないで来られたご先祖の思いを踏みにじることになることを十分自覚していただきたいと思います。
 今日は加藤氏の著書を離れて勝手に自分で突っ走ってしまいましたが、加藤氏の人間としての、そして家庭人としての基本的考えに大いに触発された私のつたない思いをしたためました。
 次回はまた加藤氏の「アメリカインディアンの教え」の中での気に入った内容についてコメントします。